概要 |
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禁門の変の首謀者の一人である真木和泉守以下17名が眠る墓です。幕末、尊王譲位の活動家であった和泉守は脱藩浪士を率いて山崎に軍を置きました。元治元年(1864年)、長州藩を中心とした尊王譲位派が挙兵し、和泉守も長州軍に合わせて軍を進めました。しかし、京都守護職の軍に敗れた和泉守らは天王山山中で自刃しました。遺骸は当初、宝積寺三重塔の前に葬られていました。しかし、徳川幕府の怒りをかい、墓は暴かれ遺骸は竹やぶに捨てられました。維新後、新政府がこれを改葬し、切腹の地とされるこの場所に墓が作られました。毎年10月には十七烈士のご子孫、地元有志らにより慰霊祭が行われています。