大山崎町商工会

日本の洋ラン栽培のふるさととしての大山崎町(蘭花譜)

加賀正太郎氏は大正から昭和にかけて活躍した実業家で、加賀証券の社長など多くの会社経営を行い、大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画した人物です。加賀氏は多くの趣味を持ち、どの趣味も趣味の領域を超えるほどに熱心に行っていました。日本人として、初めてスイス・アルプスのユングフラウに登頂した人物でもあります。
加賀氏はイギリスのウィンザー城から眺めたテムズ川に思いを馳せ、よく似た景色の広がる大山崎町の天王山中腹に自ら設計した山荘を20年の歳月をかけて建造しました。イギリスの王立植物園キューガーデンで観賞した蘭に魅了された加賀氏は、山荘に蘭専用の温室を設け、世界各地から取り寄せた蘭を栽培し、新種開発までも行っていました。新種を含め1,140種類、約1万鉢の蘭が栽培されていました。大山崎山荘は西日本の欄栽培のメッカとなり、「蘭屋敷」とも呼ばれていました。学術名に“オオヤマザキ”と名付けられた蘭も多くあります。
昭和21年(1946年)、加賀氏は栽培した蘭の優良種を後世に残すため、「蘭花譜」という104点の版画を中心とした画集にまとめました。104点の蘭花譜のうち84点が浮世絵の技法を受け継ぐ木版画で、残りの20点は油絵の印刷と白黒写真で構成されています。木版画の下絵は、日本画の池田瑞月氏が担当し、彫には大倉半兵衛氏、摺には大岩雅泉堂氏がそれぞれ起用されました。加賀氏は、蘭花譜を摺る際に何度も試し摺りをおこない、特に白色をきれいに表現するため胡粉を使用しました。また、作品のなかには120回も摺り合わせたものもあります。カラー写真の技術が発達していない当時、「蘭花譜」は蘭の学術上の重要な植物記録でありました。
完成した蘭花譜は300セット刊行され、100セットが世界の有力大学等に寄贈され、200セットが国内にて市販されました。
現在の大山崎町には、蘭のメッカであった面影はどこにも見当たりません。しかしながら、日本独特の植物画として編集された「蘭花譜」は、加賀正太郎氏の蘭に対する熱い思いとともに、学術記録・美術品として今に残っています。
かつて「蘭屋敷」と呼ばれた山荘は戦後、荒廃していましたが、保存運動が高まり1996年に「アサヒビール大山崎山荘美術館」として再生されました。

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