大山崎町商工会

山崎聖天

kanko6-4-10むかし、昔。遠くインドに、殺人・強盗なんでもござれの非道のかぎりをつくす男がいた。加えて超能力の男で、これをはばむ者はいなかった。
そんな男の前に、突然、絶世の美人が現れた。
「あなたほどの力のある人、悩める世の人のために、心を入れかえてはどうですか」
あまりの美しさにたじろいだ男は、やおら気を取り直して
「わしのいうことを聞いてくれれば、あんたのいうとおりにしようではないか」
美人も大きくうなずいた。この美人、実は十一面観音の仮の姿だった。男の無法ぶりに、救いの手を差しのべたのだった。それ以来、男は“聖天さん”となり、人心を済度してまわったという。
これがいわゆる山崎聖天(観音寺)の秘仏“歓喜天(かんぎてん)”だ。象頭人身の守護神で、ここの場合は双身像、ハスの上に男天と女天が抱きあうかっこうになっている。首から上が鼻の長い象、首から下は人間の姿。インドのあばれ男が象頭種族だったことからきている。
時代はぐーんと下がって明治の初め。仏教排撃運動が起こったとき、寺にやってきた役人が
「観喜天が秘仏とはけしからん」
と、像に手をかけた。ちょうどそのころ、その役人の子供が池でおぼれてしまった。また、観喜天が黄金でできていると思い込んでいた泥棒がいた。やっとこさ盗み出したものの、山門で腰を抜かし、すぐつかまってしまった。
天罰テキメン、観喜天の霊験のほどを語るエピソードとして、寺の日記に伝えられており、泥棒がつけたという刀傷の跡は、いまも観喜天の肩2ヵ所に残っている。
この秘仏がものいってか、山崎聖天は、江戸時代を通じて、天皇や諸大名の帰依厚く栄えたが、元治元年(1864)の禁門の変で焼きはらわれた。現在のものは明治23年に住友、三井などの財閥の支援もあり再建された。毎年11月10日から一週間、大浴油がある。あたためたゴマ油を観喜天に108回注ぐ祈願で、初心に帰る修法とされている。夫婦和合、子宝をのぞむ善男善女が訪れる。

しるべ

山崎聖天は、平安中期に宇多法皇の御願寺として創建されたといわれているが、明らかでなく、江戸時代前期の延宝9年(1681)、宮中に出入りしていた摂津・勝尾寺(箕面市)の住僧、木食以空上人が夢のおつげによって開山した。府道高槻・樫原線の阪急バス停「聖天下」で下車。天王山腹の観音寺まで石段を登り約10分。南門からは天王山登山道に通じている。
〈本文は京都新聞社提供〉

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