大山崎町商工会

打出の小槌

kanko6-4-11大山崎町の宝積寺。宝寺と呼ばれている。
昔。養老7年(723)、奈良の都のこと。文武天皇第1皇子の夢枕に竜神が立った。なんでも雨を意のままにするという竜神。小槌を出して
「これで、左の掌(たなごころ)を打てば、はかりしれない果報が授かる」
というと、竜神は天へ舞いのぼった。第1皇子が目をさますと、お告げのとおり、枕元に小槌が置かれていた。それから75日目の神亀元年2月4日。第1皇子は即位、聖武天皇となる。竜神を信じる天皇は、故事にのっとって、恵方・乾(いぬい=北西)の方に、神器・小槌を奉納することにした。それが、景勝の地“山崎の里”だったという。そして、神器をまつる寺、宝積寺は宝寺と呼ばれるようになった。鎌倉時代の歌人、藤原定家の日記「明月記」に出てくる。
現存する小槌は、棒状で長さ約30センチの“打出”と、直径約15センチのタイコ形の“小槌”。大黒さまの“打出の小槌”の神話にあわせ、いつの間にか、宝寺の打出の小槌と呼ばれるようになった。境内の恵方・北西かどの蔵に収められている。
幕末。維新回天への“蛤御門の変”。京都では二万八千戸の民家が焼け、山崎でも、離宮八幡宮、神宮寺、成恩寺、大念寺、安養院、小倉神社などの社寺仏閣と民家百数十戸を焼失したというが宝寺に被害はなかった。会津・桑名・薩摩連合軍の朝敵、長州藩の本営があったのに。寺宝・打出と小槌も安泰だった。いや、小槌があったから、災難を免れたという説もある。
正月。いまも、京阪神から善男善女が集まってくる。左の掌に“打出と小槌”を打ちつけてもらう。その手を握ったまま、うしろを振りかえらず、声も出さずに、寺門の仁王門まで歩く。その人には必ず福がやってくる-という。

しるべ

宝積寺はJR山崎駅から北へ歩いて5分。天王山に登る途中にある。仁王門、三重塔、本堂などがあり、昔から山崎随一の大寺といわれた。本堂の左手奥に、聖武天皇供養のために建てたといわれる九重の石塔があり、閻魔堂(えんまどう)の閻魔のけん族五体は重文で有名。
〈本文は京都新聞社提供〉

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