大山崎町商工会

飛び倉

kanko6-3-9平安末期。山崎(現在の大山崎町、大阪府三島郡島本町にまたがる)には、淀川沿いに山崎津があり、都から西国へ向かう外港として栄えていた。
 この山崎にもう一つ、かわらぶきの倉が多くみられた。“長者の倉”と呼ばれた。当時、都や奈良の周辺部に荘園があり、荘園を領有する貴族や寺社につかえ、年貢をおさめるかわりに自分の労力を提供、物資輸送や雑役として奉仕する村人もいた。
 荘園領主の権力は絶対で、厳しい隷属関係をしいられたが、労力提供者にも荘官(荘園の事務官)になる道があった。荘官はうま味のある職務、その立場を利用して、膨大な富を築く者も現れた。かわらぶきの米倉を構え、使用人を使って豪華な暮らしをむさぼっていた。これが、長者だった。
 ある日、とある長者の使用人が倉をあけて物を取り出していると、目の前に一枚の鉢が飛んできた。この鉢、実は大和の信貴山に昆沙門天をまつるお堂を建て、修行を重ねていた命連(みょうれん)という法師が、長者に布施を求めて法力で鉢を飛ばしたものだった。再三、鉢を飛ばしての要求を、こころよく思っていなかった使用人は、鉢を足でけりあげ、倉の中に閉じ込めてしまった。
 すると、どうしたことか、倉がぐらり、ぐらりとゆれ動くではないか。
 「これは、なんとしたことぞ」
 使用人はびっくり仰天、大声で人を呼んだ。そのうちにも倉はゆれ続け、とうとう、空中へ持ち上がったかと思うと、今度は飛びはじめたではないか。
 「そうか、あの鉢のしわざに違いない」
 使用人は事の始終を長者に訴えた。
 「米千石もある倉を持っていかれては一大事」
 長者は馬にまたがり、飛ぶ倉を追った。倉は、信貴山のお堂のかたわらまで飛んで、どかっと落ちた。
 「布施をこばんだのは当方の不覚、どうか、この倉、返しとらせ」
 長者は土下座して懇願した。命連がゆっくりした口調で
 「返すのはいと安きことだが、倉は物をしまっておくのに都合がいいから、返すわけにはいかぬ。じゃが、米だけは返そう」
 といったと思うと、米一俵が鉢に乗って空中へ舞いあがり、残りの俵も、その後を追うように続いた。かくして、千石とも無事長者の家へ飛び帰った。

しるべ

“飛び倉”の話は、富へのあこがれを込めてつくり出した長者志向の“伝説”で、「宇治拾遺集」にも信貴山縁起として登場してくる。山崎長者の米倉が立ち並んだ淀川沿いは明治時代につくられた堤防(現在の国道171号線)などで、往時のおもかげはなくなっている。
〈本文は京都新聞社提供〉

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