戦国時代の大山崎町
「天王山」という言葉をテレビなどで聞いたことのある方は多いと思います。プロ野球の首位攻防戦など、負けられない試合では「天王山」という言葉がよく使われています。
羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀が戦ったのが山崎・天王山なのです。この「天下分け目の天王山 山崎合戦」に勝利した秀吉は天下人まで一気に駆け上りました。“勝負を決する大事な場面や時”、“勝負の分岐点”を意味して「天王山」と表現するのは、この合戦を由来としています。
天正10年(1582年)、光秀は京都本能寺にいた織田信長を襲撃しました。このとき、秀吉は備中(岡山県)にいました。主君の死を聞いた秀吉はただちに敵の毛利方と和睦を結び、光秀を討つために軍を一気に西へ進めました。わずか3日で中国街道を駆け抜け姫路へ到着しました。世に言う「秀吉の中国大返し」です。
光秀は兵を天王山の東側に布陣させ、淀川と天王山の間の狭い土地を利用して秀吉軍を攻め打つつもりでした。しかし、約4万人の秀吉軍は明智軍の後方に回りこみ挟み撃ちの攻撃を仕掛けました。決戦はわずか3時間程度で秀吉軍の勝利で終わりました。
この勝利の後、織田家の家臣の多くが秀吉側につき、秀吉は天下人まで一気に駆け上りました。
山崎の合戦に勝利した秀吉は天王山に山崎城を築きました。城は1年余りで壊されますが、この間、大山崎は城下町となりました。秀吉に仕えていた千利休も屋敷を構え、千利休が造ったといわれる「待庵」(国宝)が現存しています。
山崎合戦で秀吉が味方の士気を高めるために千成瓢箪の旗印を掲げた「旗立松」、天王山ハイキングコース「秀吉の道」など、山崎合戦ゆかりの地が多くあります。また、大山崎町歴史資料館では合戦の様子がビジュアルで紹介されています。
秀吉は大山崎で天下統一への第一歩を踏み出したのです。