大山崎町商工会

酒づくりの神様

kanko6-5-14淀川をはさんで、男山と相対する山、天王山。海抜274メートルで、戦国時代前後、戦略的要害の地として、幾多の英雄・豪傑が戦火をまじえた。秀吉天下取りの第一歩となった山崎の合戦で知られる。
その山頂付近、山道沿いに、木の香もまだ新しそうな社殿がある。酒解(さけとけ)神社という。
歴史がまだはっきりしない大昔のこと。山をつかさどる神様、大山祀神(おおやまつみのかみ)を中心に、諸国の神様が集まって、話し合いの会が持たれた。
「どうじゃな、みなみな方。これを飲んでみては」
と、大山祀神は白い奇妙な汁のようなものを、神々にすすめた。
やがて「いい気持ちになる飲ものじゃ」
初めは尻ごみをしていた神々もほかならぬ大山祀神の自信たっぷりの様子に、次々と飲みほしていく。飲むほどに、陶然としてくる。
「神よ、これは何という飲みものぞ」
「これは、米からつくった酒というものぞ」
酒とは、いい味がし、いい香りのするもののこと、と大山祀神は答えた。神々は《米から酒をつくる》《米をといて酒をつくる》をみやげに、諸国へ帰って行った。
こうして、大山祀神は日の本の国で初めて酒をつくった神様といわれるようになる。神々の中には、山崎を治める神様もいた。酒づくりも伝わり、酒解神社はその大山祀神をまつった-出所不明の話だが、里の一部では、根強く残っていたいい伝えだという。
酒解神社には、また別の史話が伝えられる。
この社、かつて貴人であり豪族であった橘が氏神で、元正天皇の養老元年(717)に建立された。その当時は、まだ「山崎社(やまざきのやしろ)」と呼ばれていた。その後、嵯峨天皇(809~823)の皇后に、橘一門の橘嘉智子がのぼったことが機縁になり、皇后が嵯峨の梅宮に一門の祖を氏神として酒解の神を勧請、また、天皇自身もゆかりの地・山崎の社に酒解の神をうつした。梅宮の社が従四位の下、山崎の社が従五位に列せられ、山崎郷の名神大社として、里人の信仰を集めた。
当時、新しい名は、「自玉手祭来(たまてよりまつりきたる)の酒解神社」と呼ばれたという。さらに、一時期、「天王社」と改名したこともあるが、明治10年、京都府が故事来歴があるとして「酒解」に戻った。酒解の神が“五位”の神階を持っていたことで、そのことは、酒解神をまつる天王山から大山崎町に 流れ込む川が“五位川”だったとされている。

しるべ

酒解神社は天王山を訪ねるハイカーの巡拝コースの一つになっており、毎年5月5日の例祭には、神輿が山ろくまでねり降りる。ここの神輿庫は板校倉(いたあぜくら)と呼ばれるもので、切り妻造りの本かわらぶき、正面に板のとびらを置き、その他は厚さ約12センチの厚板を組んでつくられている。他に類のない貴重な建造物とされている。JR山崎駅から宝寺登り口を経て、社殿まで歩いて約30分。
〈本文は京都新聞社提供〉

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