大山崎町商工会

きつね渡し

kanko6-3-8「おーい、船が着いたぞ」
江戸時代も太平が続き、西国街道の往来は活気に満ちていた。ここは山崎村の泥ヶ浜。伏見から大阪へ下る“三十石船”の船着き場だった。季節の野菜、果物を積んだ大八車がやってきた。口丹波(亀岡市篠町あたり)から老ノ坂峠を越え、山崎を通って運ばれてきたのだ。
「あらよっ、ほいきた」
威勢のいい船頭の掛け声で、時によってはタケノコ、また時によってはマツタケやクリ。丹波から大阪方面へ運ばれる味覚が次々と積み込まれる。
かわって、船からは着物などが陸揚げされて大八車へ。
「おーい、船が出るぞ」
今度は手甲・脚はんの旅人が乗り込む。対岸の男山か、大阪へ下る人たちだ。泥ヶ浜は丹波と大阪、西国街道と京街道を結ぶ水上輸送の“要港”で、のどかな風景も続いた。とくに、大原野の善峯寺から男山八幡を巡拝する人が多く、“渡し場”としても盛況をきわめたという。
この泥ヶ浜、いつのころからか“きつね渡し”と呼ばれるようになった。七変化のキツネのように川の流れがくるくる変わるところから生まれた。
ある日、男山を巡視する京都・二条城勤番の役人が船に乗り込んだ。岸を離れて間もなく、船足がにぶった。ついいままで、順調だった流れが変わっている。天下御免の権力をカサに着た武士のこと
「どうしたことじゃ。こら船頭、何とかならぬのか」
そこは水になれきった船頭のこと
「へい、おサムライさま。なんせ、おキツネさまの仕わざ、少しお待ちになれば、もうコンコンで、静かになりまする。へい」
このやりとりが、旅人から旅人へ伝わり、西国街道の“きつね渡し”として、さらに知られるようになったという。
有名になったので、“きつね渡し”の場所を示す道標が街道沿いの各所に設けられた。その道標には“すぐきつね渡し”と書かれていた。“すぐ”というのは、“もうすぐ”の意味でなく、“まっすぐ”のことだった。
もっとも、この“きつね渡し”木津川と桂川の合流点・木津根を渡ったことから、“きづね”がなまったものだとする説もある。

しるべ

“きつね渡し”は、昭和11年ごろまであったといい、廃止前に船頭をしていた大山崎町役場の川辻嘉一郎さんは「五厘の舟賃で渡し、朝夕と正月には相当混雑したものです」と話す。道標は現在、円明寺が丘団地入口付近の府道に、高さ約70センチの石碑が残っているだけ。〔注釈:石碑は現在、大山崎町立中央公民館の中庭に移設されています。〕
〈本文は京都新聞社提供〉

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