大山崎町商工会

加藤清正の霊験

kanko6-4-12時は幕末。山崎の西国街道沿いに、馬借(ばしゃく)所があった。馬を利用した運送業で、主人を五位川忠兵衛といった。世情騒然たる中、長州藩が山崎に進駐。その浪士隊長は真木和泉守保臣(やすおみ)。
 築前久留米の水天宮神官だったという真木の人柄に、忠兵衛はうたれて、なにくれとなく世話をやいていた。忠兵衛の先祖は、戦国の荒大名・加藤清正の家臣といわれ、忠兵衛自身も《オレは武士の血を引く家門の出、いったん事あらば》と血をたぎらせていた。
 そして、長州藩は征上の途、山崎を進発、京都へ上ることになる。
 忠兵衛は、居ても立ってもいられなくなり
 「義を思い、国を憂えるは同じ。ぜひともお供を」
 食いつくようなまなざしで訴える忠兵衛に
 「おぬしが、そこまでいうのなら、生死をともに」
と、真木も参戦を許した。忠兵衛は、真木のクツワをとって攻め上ったが、武運つたなく、捕われの身となり、二条城内に監禁されてしまった。
 忠兵衛捕わる-の報に、父・忠次良は、《かくなるうえは、仏神にすがるしかない。先祖の主君・清正公は山崎の合戦でも大功のあった御大将。こと戦いにまつわる願い事なら、必ずかなえて下さるはず》
 子を思う父は、西国街道を西へひた走り。往復1ヶ月の長旅を重ねて、清正の“御神体”を持ち帰った。庭先に安置し、《自分から進んで参戦した者だけに、すぐ帰されることはないだろうが、どうか、無事でいてくれ》
 毎朝、毎夜の祈りが通じたのか“御神体”を安置して1ヶ月目。忠兵衛は、なんのおとがめもなく放免されて帰ってきた。
《…この戦い、元治元年(1864)7月のこと。京都へ上った長州軍の弾丸が、御所・蛤(はまぐり)御門内に飛んだことから、会津・桑名・彦根・薩摩の連合軍に追われて敗走した。“蛤御門の変”、“禁門の変”という。真木も、本拠地・山崎に退陣、隊士16人とともに、天王山上で割腹して果てた…》
 帰ってきて、真木らの自決を聞かされた忠兵衛は、
 「さぞ、無念であられたろう。せめて、その霊をとむらうのが、生き残った自分のつとめ」
と、真木ら十七隊士の仏を宝積寺・三重の塔下に仮安置し、明治元年、天王山中腹にまつった。今も“十七烈士”の墓として残る。

しるべ

清正の“御神体”は木製、身長約20センチの武将姿といわれ、忠兵衛の孫にあたる森口忠一さん方(大山崎町松原)の庭にいまもまつられており、毎月24日を命日にしている。忠兵衛は、その後、明治にはいって森口姓を名のり、初代の山崎郵便局長をつとめた。
〈本文は京都新聞社提供〉

PAGE TOP