大山崎町商工会

投石信仰の石倉神社

kanko6-2-5円明寺の里、樹木がうっそうとおい茂る一角に、小さな社があった。その昔から、農耕の神さまとして近郷近在から信仰を集めていた小倉神社の参道沿いだった。
 よく晴れた秋のある日。里人の一団がこの小さな社にやってきた。社殿の前で伏しおがむと、小石を拾い始めた。小石を握りしめて
 「今年も豊年満作、無病息災で、過ごせますように」
と、いったかと思うと、ビューンと社殿に投げつけた。一人ではない。次から次へと、里人は石を拾っては投げつけた。神さまに石を投げつける、一般の神社もうでとはウラハラの異様な光景だった。
 「さあ、こらからが本参りじゃ」
 里の長(おさ)の声に、集団は小倉神社へ向かう。この小さな社は、“おはらい”と“みそぎ”を授ける社であり、石は“おはらい”と“みそぎ”を受ける“人の身がわり”だったのだ。
 当時、石には神さまのほか、人の魂もやどるとされていた。病気になった時、伝承の薬草以外の名薬は石に祈ることであった。石に心がうつって、神さまがなおしてくれると信じられていた。夜泣きによくきく“夜泣き石”、セキどめの“セキ取り石”、そして、“アザ取り石”などと。石は神であり、人であるという信心だった。
 この小さな社に、また、里人の一団がやってきた。一年たっていた。里の長が大声で
 「お礼の本参りじゃ。さあ、“おはらい”を受けようぞ」
と、里人にいい渡した。二つ、四つ、六つ、八つ。それぞれ、思い思いの数だけ石を拾って、投げ始めた。一願成就の場合、前の倍の石を投げ返して、“おはらい”を受けるという習慣が、いつの間にか伝えられていたのだ。石は社殿の屋根にあたってはね返り、年々周囲の石の数が増していった。この小さな社は石倉神社と呼ばれていた。石を投げる風習は、明治の中ごろまで、調子、友岡、下海印寺、神足などの人たちの間で続けられていたという。
 現在の社は、10年ほど前〔注釈:「京都 乙訓・山城の伝説」は昭和52年2月に発行されました。〕、地元の人の手で修理、再建されたもので、ころがる小石が往時を物語っている。左へ行くと小倉神社、右へ行くと金ヶ原、奥海印寺、柳谷観音へ通じる所にあるので、道路の悪霊を防ぐ“道祖神”だという説もある。

しるべ

長岡京市調子八角の十字路から西へ歩いて約15分、小倉神社手前の道から約3メートルの竹やぶの中。つい見過ごしてしまうほどわかりにくい所で、石倉神社の周りは石ころが散乱しているためかサクが設けてある。いまでは時々、道路越しに手をあわせるお年寄りがみられるくらい。
〈本文は京都新聞社提供〉

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