大山崎町商工会

ええじゃないか踊り

kanko6-2-6酒に酔った村人たちが踊りはじめた。身ぶり、手ぶりは、一時のウサを晴らすのか、本当に喜びに包まれてなのか。
 「ええじゃないか、ええじゃないか」
 ここは、円明寺村。旧家を誇る弥平の庭先だった。幕末、慶応3年(1867)のこと。
 長州の浪士隊が山崎から出陣、京都で敗退、朝敵として追われた“蛤御門変(禁門の変)”があって三年、いよいよ物情騒然としたころだ。円明寺の村人も《あしたは、どうなることやら》と、不安を隠しきれなかった。
 とり入れも近づいた10月のある日、弥平の家の庭先に一枚の紙が舞い降りた。拾いあげてみると、なんと、伊勢皇大神宮の“お礼”。
 「お伊勢さんの“お礼”が降ってくるとは…。こんな真っ暗ヤミの世の中は終わり、わしらも、もっと自由に暮らせる新しい時代がくるお告げかも…」
 弥平の話を聞いて、村人が庭先に集まった。酒をくみかわし、小踊りし、お祭り騒ぎとなった。そして、だれが歌い出すともなく
 「ええじゃないか、ええじゃないか」-と。
 村人の数は、ふえるばかり、踊りの輪も大きく広がって、まる二日間、庭先で歌い、踊りまくった。三日目になると、輪は行列となって天王山へ。中腹の観音寺境内まで行き、“ええじゃないか踊り”は最高潮に達した。
 踊る村人の顔は、それぞれに違っていた。何かを期待して生き生きした目。すべてをあきらめ切ったうつろなまなざし。どちらにしても“ええじゃないか”だったのだろう-という。
 が、この“ええじゃないか踊り”には他にも説がある。江戸市中をかく乱した薩摩藩・益満休之助のように、倒幕派の浪士が後ろで糸を引き、崩壊寸前の幕府の治安にゆさぶりをかけたのだといい、また江戸時代の庶民層に流行した“おかげ参り(伊勢参り)”の変形だとするいい伝えもある。隣の島本村広瀬(島本町)でも同じような騒ぎのあったことが記録に残されている。弥平の家は円明寺村の山寺地区にあったといわれるが、いま、その跡をたどるものはないし、“ええじゃないか踊り”にしても知る人はいない。

しるべ

山寺地区は、円明寺村でも最も古い地区で、円明教寺を中心に広がっている。伊勢神宮のお礼は、富家の庭に降ることが多かったといわれ、弥平の家も広い庭を持っていたので、選ばれたものという。また、“おかげ参り”は、江戸時代、父母・年長者のゆるしを得ずに家を抜け出し、沿道の施しをもらって伊勢参りをしたことで、当時の庶民層の不満発散行事だった。
〈本文は京都新聞社提供〉

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