荏胡麻油と大山崎町
大山崎町は荏胡麻油によって栄えた豊かな街でした。
荏胡麻とはシソ科の植物で「え」「あぶらえ」「じゅねん」などとも呼ばれています。胡麻と付きますが、ゴマ油のゴマとは違う植物です。韓国ではサムギョプサルなどの肉料理でよく食べられています。高さは1mほどになり、秋に実がなります。その実を絞ったものが荏胡麻油です。シソ油と呼ばれることもあります。菜種油が普及するまで日本で植物油と言えば荏胡麻油でした。
平安時代に離宮八幡宮の宮司が「長木(ながき)」という搾油器を発明しました。油は石清水八幡宮を初めとする京都の寺社で灯明として用いられていたほか、宮中にも献上されていました。天皇は「世の中を明るくしてくれた」と大層お喜びだったそうです。
大山崎町で荏胡麻が栽培されていた記録はありません。瀬戸内諸国などで栽培されたものが水陸交通の要であった大山崎町に運ばれ生産されていました。
油の生産者は神人(じにん)と呼ばれ、油の生産だけでなく、神事に係わることも多くありました。
鎌倉時代に入ると生産量は増加し、神人たちは油を安定的に供給するために油座という同業者組合を設けました。京の都には多くの寺社があり、多くの民が住んでいました。この巨大市場を相手に大山崎油座は商売を順調に伸ばしていきました。大山崎油座はさらなる販売網拡大を狙い、朝廷・幕府に特権を申し出ました。大山崎油座は離宮八幡宮と強い結びつきがあり、神殿に供える油を寄進していました。そのような油座は時の権力者にとって神に仕えるものと同じで、その申し出を断ることはできなかったようです。特権を得た大山崎油座は他地域の油商人たちより有利な商売が可能となりました。西は九州、東は美濃までと広大な販売網で商売をするうえで、関所通行料免除の特権は特に大きな利益をもたらしました。遠方へ販売に出かけた際には、販売先の特産品を仕入れて都に持ち帰り販売するという大変合理的な商売をしていました。
司馬遼太郎著の「国盗り物語」で有名な斎藤道三は、離宮八幡宮油座の油商人として荏胡麻油を売ることから始まり、のちに美濃の国主にのぼりつめました。
菜種油の生産が始まるとススが多く出る荏胡麻油は敬遠され需要は減少しました。それにともない荏胡麻油は限られた用途でしか使用されなくなり知名度は低くなっていきました。
大山崎町では平成21年度より「エゴマ油復活プロジェクト」が始まりました。「おおやまざきえごまクラブ」のみなさんが、荏胡麻の栽培、荏胡麻油の活用を研究され、荏胡麻油が大山崎町の魅力のひとつとなるよう活動されています。