大山崎町商工会

行基と人柱

kanko6-3-7奈良時代の神亀2年(724)8月。高僧・行基(ぎょうぎ)が弟子を連れて、山崎の里へやってきた。西国へ説法行脚の途中だった。淀川のほとりに着いたが、渡し船が見当たらない。その場にたたずんだ行基は、ふと、大きな柱が一本、川面に突き出ているのを見た。不審に思い、
 「あの柱、あのようにあるのはなぜか。だれか知っている者はおらぬか」
と、弟子に里人の間をまわらせた。すると、一人の老人が
 「お坊さま、これには、深い悲しい、いい伝えがありますのじゃ」
 老人は、顔をゆがめて、とつとつと話し始めた。
 …その昔。この地に橋がかけられることになった。西国道、南海道への一つの近道になると、旅人にとっては、朗報にちがいなかったが、地元の里人の心は悲しみに包まれていた。橋のいけにえとして人柱を立てるのが、当時の風習だったのだ。そして、その人柱に、美しい茶屋の娘が選ばれた。
 「おお、なんと恐ろしくも、悲しいことじゃ」
 里人がなんと嘆こうとも、山崎は川幅が狭く、橋をかける所は、ここのほかはなかった。白羽の矢を立てられた娘は、父や母の涙をふり切って
 「私の命で、神の心が安らぎ、無事、橋がかけられるなら」
と、川底に身を沈めた。
 こうして、橋はかけられたものの、度重なる大水で流され、大きな柱一本が残った。あれが、人柱の化身ではないか…
 老人の話を聞き終えた行基は
 「橋は、この行基にお任せあれ。安らかに成仏を」
と、手をあわせた。行基には期するところがあった。
 当時、地方から都へ米、塩、布などの租税を運ぶ人、宮中や寺院の工事にかり出されて行く人、それぞれ、橋がないため苦しみ、果ては川にのまれていく姿が、行基自身の眼中にも焼きついていた。
 「難渋するのは、民人ばかり。民人を救い、あの娘の霊をとむらうためにも」
 行基は橋かけに取りかかり、一挙につくりあげた。この橋、「山崎橋」と呼ばれた。
 その後、行基は池を修理したり、旅人の宿泊所“布施屋”を設けたりして、天平17年(745)、わが国最初の大僧正となった。その胸の奥底には“茶屋の娘”の心根が刻まれていたという。 

しるべ

「山崎橋」は行基が架橋したものの、これまた、当時の技術や資材では耐久力がなく流失してしまう。その後、何度か改修された記録はあるが、いつの間にか、廃絶されてしまった。「山崎橋」がかけられた所は現在の合流地点よりずっと上流だったといわれるが、明示するものはない。行基については、山崎と関係深い僧で、宝積寺などに“足跡”が残されている。
〈本文は京都新聞社提供〉

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