桓武平氏の祖
大山崎町円明寺に“葛原(かつらはら)”という地名がある。そばに円明寺が丘団地が広がるところ。桓武天皇(781~806)の皇子・葛原親王ゆかりの地といわれる。
葛原親王(786~853)は第三皇子とも第五皇子だったとも記録されているが、大山崎町に河陽離宮をおいた嵯峨天皇の異腹の兄弟であり、四品治部卿から大蔵卿、弾圧尹、式部卿、中務卿など、当時の朝廷政府の要職を経て、一品(第一位の親王)にまで昇進した。愛人が多く、子も多かった桓武天皇の皇子の中でも、エリートだったわけだが、王朝の権門にこびることなく、また、権門をカサにきることなく、いや、皇族きらいとして68歳の一生を終えた。
史書は伝えている。「物におごらず、書物を歴覧して、古今の成敗をもって自らを戒め、子に王の称号をやめて…」(大山崎史談会)、という。そして、二人の子には“平朝臣”の姓を請い受けて、いわゆる“桓武平氏”の祖となった。臣籍降下だ。
親王の孫が、名実ともに“平氏”を名のった高望王。その孫が平将門で、親王の“玄孫”ということになる。
団地以前、竹やぶの中に“丸山”と呼ばれる古塚があった。これが、親王の墓とも火葬地とも伝えられてきた。墓が語り伝えただけだったのは、親王が遺名として、死後は手厚く葬ることを固く禁じ、また朝廷の監督保護を固く辞退したためだという。皇族きらいの親王をほうふつとさせる話だが、その足跡は、確かにこの地に残されている、とされている。
桓武天皇の皇后ら、乙訓にゆかりの御陵が多いこと。親王の兄・淳和天皇は物集女で火葬、小塩山に陵が指定されていること。親王の弟に、山崎の地名をとった賀陽親王の名があること-などから、さらに、地名の葛原と親王の名が一致することから、親王の墓があっても不思議ではないという。
この“伝承地”付近から、石棺の一部とみられる板石が掘り出されたことがある。長い間、農道用として、近くを流れる久保川の橋がわりに使われていた。親王の石棺であったかどうかは、明らかではないが、形や大きさから、ゆかりの地を裏付けるものとして、そのままこの板石を利用。昭和44年6月、「葛原親王塚伝承地」の碑が建てられた。
しるべ
碑は阪急バス・長岡天神から金ヶ原行きで、円明寺が丘バス停で下車、円明寺が丘団地・葛原児童公園内にある。昭和40年、京都府が団地づくりに着手した際、町文化協会と府が話しあいの結果、文化財を守ろうと、墓の伝承地を児童公園として保存することにした。
〈本文は京都新聞社提供〉